渋谷のボルダリングジム、ノボロックに行った。昨日に引き続き二日連続でのボルダリングをした。思ったよりパフォーマンスは落ちておらず、1級はほとんどクリアできたが、初段はまるで落とせなかった。ただ、好調であれば落とせそうな初段は2つあったため、通えばきっとできると思う。さて、今回のボルダリングでは2つ特筆すべき点がある。その2点について詳細を書こうと思う。
1つは、店員さんがかわいかったということ。間違いなく秋葉原のB-pumpよりもかわいく、かつジムが小規模のため触れ合う機会も多かった。ジム利用者同士の距離も近くフレンドリーな感覚さえ覚えた。正直、渋谷のノボロックに定期的に通う友達ができればメインジムにでもしたいくらいだ。まあ、このことはさておき、2つ目が大きな進歩である。
2つ目は、頑張ればできそうであるが、ちょっとできない課題への挑戦が楽しいと言うことだ。最近は、おそらくこれはできるであろうという課題にばかり取り組み、2、3回失敗した課題は、おそらく今の実力ではできないだろうと勝手に自分の限界を作り、挑戦することを避けてしまっていた。しかし、これではまるで意味がないのだ。ボルダリングに行く意味がないのだ。どういうことか?
人は、生まれてこの方、少しずつ成長して生きてきたはずである。そして、その成長には挑戦がつきものであったはずだ。生まれた瞬間になんでもできる人間は存在しない。もちろん、成長とともに体が大きくなり、できることが増えるということはあるだろう。しかし、成人した今、努力抜きに勝手に成長をすることはあり得ないのだ。そして、努力をしたのちに行うことは、挑戦である。今日できないことに対する、挑戦である。今日100%できることを行うことは、挑戦ではない。
大人になるにつれ、挑戦をする機会が減ってはいないか?
それはつまり、成長する機会を自ら逃しているということではないか?
失敗する可能性がほとんどない、予定調和、ドキドキのない人生を歩んでいないか?
歩んでいるとしたら、その人生に満足をしているのか?
今日の自分にはちょっと難しい課題。
それを避ける人生と、それに挑む人生。
どちらを選ぶことが楽しいか?
私は、後者を選び続ける。
Post Script:
岡本太郎氏の『自分の中に毒を持て』を読んだ。現代人にとって、”生きる”とはどういうことだろうか。”歓喜”とはどういうことだろうか。人それぞれの価値観があると思う。思考停止で一般的な幸福の形を受け入れるのではなく、自分で考え、自分にとっての幸福の形を探すのがいいのではないでろうか。そして、幸福に限らずあらゆる言語化された抽象概念を、自分の言葉にする癖をつけたらいいと思う。
以上
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