皆さんは、勉強が好きでしょうか。私は、勉強自体はとても大好きです。

知らないことを1つ知るごとに、自分の世界が広がる感覚を得られるからです。

例えば、コーヒーの存在を知らない室町時代には、飲み物の選択肢にコーヒーはなかったでしょう。

洗濯機のない明治時代には、洗濯物をするのは”たらい”1択だったでしょう。

このように、知識とは世界を広げてくれるのです。

しかし、調べればなんでも情報がでてくる現代では、脳内に知識を残す意味がないのではないか?と言われることもあります。試験勉強でさえ、なんでも持ち込み可という形式をとるものもあるくらいです。

それでもなお、私が知識を蓄えることを強くすすめるのはやはり、知識が世界を広げるからです。

世の中には、

”一を聞いて、十を知る。”

ということわざがあるように、物事の一部を聞いて全体を理解する人がいるようです。

その人は頭がいいのでしょうか、そして一を聞いて一しか理解できない人は頭が悪いのでしょうか?

違います。

両者の違いは、知識があるかどうかです。

たとえば親に、夕飯の買い物を頼まれたとします。

「玉ねぎと人参とじゃがいも買ってきて。あと、豚肉も。」

そう言われたら、あなたはカレーかシチューを作るのかな?と予想するでしょう。もしあなたが、家にカレーのルーが残っているのを知っていれば、高確率でカレーを予想すると思います。

そして、それは豚肉のカレーであり、今日が父親の誕生日でかつ、父親の好物がカレーであればこの予想は確信に変わります。

一方、あなたに何の知識もなければ、ただただ言われた具材を買うことでしょう。そこには何の広がりもなく、ただ玉ねぎと人参、じゃがいもと豚肉があるだけです。

このように、”一を聞いて、十を知る”とは、先天的な頭の良さによる理解ではなく、後天的な知識量による技術なのです。

知識量さえ増やせば、一を聞いて、百を知ることも可能です。

さて、本題ですが、私はこの知識量を増やす勉強が大好きです。一方で、試験のための勉強はモチベーションがわかないと気づきました。

よく、勉強をめちゃくちゃしているのに試験に受からない人、全然勉強をしているように見えないのに試験に受かる人がいます。

この両者の差は、試験のための勉強をしているかどうかです。

長くなったので、どういうことかはまた後で書こうと思います。

今日は簿記の試験がありましたが、電卓を忘れ落ちました。いや、電卓を忘れていなくても落ちていたでしょう。もう最悪だよ。

以上